今年度の関西地区例会を以下のとおり開催します。戦後70年ということで(開催時には71年になりますが)「オセアニアと日本の戦後」というテーマで二本の研究発表を行ないます。比較的広い範囲の方々に関心を持っていただけるテーマになっていると思いますので、会員以外にも関心のありそうな方がいらしたらぜひお誘いいただけますとさいわいです。よろしくお願いいたします。
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第二次大戦において海外で戦没した日本人は240万人にのぼる。戦後、実施さ れた遺骨収容事業によって帰還したのは、2013年時点でおよそ半分の127万柱で、 のこりの113万柱は海外にのこされたままである。
遺骨収集活動が目指すところは、端的に言えばこの残された遺骨を0にするこ とだが、それは不可能である。すでに戦後70年が経過し、特に太平洋、東南アジ アなどの熱帯地域における遺骨はすでに土に還ってしまったものも少なくないた め、どうやってもすべて収容することはできない。では、いったい、いつ、どう すれば遺骨収集は「終わる」のだろうか。この問題について、遺骨と残骨という 二つの「のこされた骨」をキーワードに考察してみたい。
ここで「遺骨」とは、骨と「それを遺された人々」の間の関係としてこの問題 を捉える語である。この観点からすれば、遺骨は、それを遺された遺族・戦友が いなくなれば風化し「終わる」ものである。だが、この風化の瀬戸際で、政府は 近年遺骨収集事業を活性化させている。平成27年には「戦没者の遺骨収集の推進 に関する法律」が制定され、同年以降の10箇年に集中して事業を推進する方針を 定めた。ここには遺骨問題を風化させまいという意志と、同時に10年で(遺族・ 戦友が存命の間に)「終わり」にしたいという意図の両方が看取できる。しかし、 この活動は同時に新たな世代の間に自らを「遺された人=国民」と考え、遺骨収 容に携わる人々を生み出してもいる。「遺された人」がいれば、遺骨は「終わ り」にならずに、新たな形で存在するようになるのだろうか。
もう一つの「残骨」は、遺骨の収容活動において、その一つの場所で「収容し きれずに残ってしまう」骨を指す語である。太平洋方面では特に、すでに遺骨が 土に還りはじめているため、すべては収容し切れず、どうしても細かい「骨片」 は残り続ける。この「残骨」は収容者たちを迷わせる。すべて持ち帰りたいが、 ここを「終わり」にしなければ他の場所の遺骨収容に向かえない。実際の収容現 場において人々は、この「終わらない残骨」とどのように向き合うのか。
以上の二つの「のこされた骨」をめぐる問題について、ガダルカナル島で実施 されている遺骨収容活動を事例に考え、その上で遺骨収容が「終わる」というこ とがいったい何を意味するのか、それがいかにして可能になるのかについて考察 してみたい。
アジア・太平洋戦争においては、1941年12月から1944年7月まで日本軍がグア ムを占領統治していた。特にその末期、アメリカ軍の再上陸が間近に迫ると、男 性は飛行場建設や陣地構築に駆り出され、女性や子どもは食糧増産に動員された。 グアムでは毎年7月になると、日本による占領統治や日米両軍の激戦の中で惨禍 を被ったり、亡くなったりしたチャモロの追悼や記念の諸行事が行われている。 特に、7月21日はアメリカ軍が日本の占領統治からグアムを「解放」したことを 記念して、「解放」記念日(Liberation Day)という祝日が設けられている。同 日は、グアムの中心都市であるハガッニャで盛大なパレードが催され、様々な団 体の山車(float)や人々が目抜き通りを練り歩くとともに、数万人の観客がこ の式典に集う。また同じ時期には、地元コミュニティや記念財団等が主催する追 悼行事も島内各地で行われており、日本占領統治期を生き抜いたチャモロの人々 やグアム政府・議会関係者、米軍関係者など様々な人々が参加する。
つまり、同島の人々にとって毎年7月は、約70年前の日米による戦争で受けた 苦難を想起し、犠牲者を悼むための大事な1ヶ月であるということができる。本 報告では、これらグアムにおける戦争の記憶の表象に焦点を当てながら、そこに 立ち現れる記念・顕彰と追悼・慰霊をめぐる「ねじれ」について考察する。具体 的には、毎年7月に行われる「解放」(Liberation)の諸行事と島内各地の追悼 式・慰霊祭を取り上げながら、式典の歴史的背景や主催者、参加者の中身に注目 する。各行事の成り立ちや関わりのある人々に目を向けることで、記念・顕彰と 追悼・慰霊の「ねじれ」にグアム・日本・アメリカという三者関係が深く影響を 及ぼしていることを確認したい。