日本オセアニア学会20周年記念シンポジウム
「南太平洋のフロンティア」

このページは, 2003年5月27日 14時0分 に最終更新されました。


1 はじめに 青柳まちこ(茨城キリスト教大学)

1999年3月13日(土)13時30分から17時30分まで、東京新宿の東京年金基金センタ−: セブン・シティにおいて、日本オセアニア学会主催、日本人類学会、日本民族学会、東南アジア考古学会共催による日本オセアニア学会20周年記念シンポジウム「南太平洋のフロンティア」が開催された。なお会場や同時通訳の手配、宣伝などさまざまな面で後援をしてくださった読売新聞社には、この誌面を借りて改めてお礼を申し上げたい。

日本オセアニア学会のこれまでの歩み、またこのシンポジウム開催の意図については、大塚会長の当日の「開会の辞」に詳しい。当日はまずまずの天候に恵まれ、多数の熱心な聴衆を迎えることができた上、講演終了後もすべてを紹介しきれないほどの多くの質問が寄せられた。本シンポジウムの企画に加わった一人として、講演者、参加者とともに有意義な4時間を過ごすことができたことを心から喜ばしく思っている。

当日のプログラムは以下の通りである。以下このプログラムの順序にしたがって要旨を掲載する。



総合司会 青柳まちこ(茨城キリスト教大学)

開会の辞 大塚柳太郎(東京大学)

講演者

印東道子(北海道東海大学)
南太平洋のフロンティアライン
Introduction to the South Pacific Frontiers
Peter Bellwood(オ−ストラリア国立大学)
太平洋のヒト:移住史をめぐる論争
Understanding the Human Colonization of the Pacific
Patric V. Kirch(カリフォルニア大学)
ラピタ文化:オセアニア人の広がり
Lapita and the Expansion of the Oceanic-Speaking People
Janet M. Davidson (ニュ−ジ−ランド博物館)
最後のフロンティア:ニュ−ジ−ランドへの移住
The Last Frontier of Human Settlement ―The Prehistory of New Zealand―

総合討論

閉会の辞 須藤健一(神戸大学)



2 20周年記念国際シンポジウム「南太平洋のフロンティア」について
                     大塚柳太郎(シンポジウム実行委員長)

昨年度は、1978年に創設された本学会が成人に達した年でした。この節目のときにあたり、記念行事の企画が総会や理事会で取り上げられ、会員の皆様からご意見をいただく機会を設けたことはご承知のとおりです。さまざまな提案がなされました。そのひとつとして、海外からオセアニア出身者を含む研究者を招へいしてシンポジウムを行う可能性について、私自身が発言したこともありました。それに対する具体案を寄せてくださった会員もおられたのですが、どのようなテーマでどのような企画をつくれるかという段になると、なかなか決断することができませんでした。多様な分野の研究者からなる本学会の特徴から、シンポジウムのテーマには事欠きませんが、逆に一つを選ぶことの難しさを痛感した次第です。

いろいろな経緯を経て、「南太平洋のフロンティア」に落ち着いたのですが、幸いなことに、まさに第一線で活躍中のDr. Janet M. Davidson、Professor Patrick Kirch、Dr. PeterBellwoodを招へいすることができました。Dr. Davidsonについては青柳まちこ氏、Professor Kirchについては印東道子氏のご尽力によるところが多く、Dr. Bellwoodについては昨年暮れの実行委員会の最中に頼み込むという曲芸まがいのことをしたのですが、快諾を得ることができました。この冷や汗ものの準備過程を想い返すにつけ、本学会に対する海外の研究者の連帯感あるいは友情を強く感じました。

さてシンポジウムですが、最初に序論ともいえる報告をわかりやすくしていただいた印東氏、司会を一人で担当してくださった青柳氏のご努力に負うところも大きかったのですが、ベストメンバーともいえる招待シンポジストの発表を直接拝聴できたことは、学会員にも聴衆諸氏にも刺激に満ちた有意義な機会となりました。日本人類学会、日本民族学会、東南アジア考古学会の共催、そして讀賣新聞の後援をいただいたのですが、私どもの心配は何人の方々が会場に足を運んでくれるかということでした。この点につきましても、会員諸氏のご協力により期待どおりの参加者を得ることができ喜んでおります。オセアニア、それも考古学に的を絞ったシンポジウムに300名近くの人びとが参加されたことは、オセアニア研究の魅力が広く認められているのであろうと意を強くした次第です。

手作りの色彩が濃かったシンポジウムでしたので、それを支えてくださった実行委員の皆様の努力は大変なものでした。青柳、印東両氏のほか、事務局の仕事を担当された栗田博之、棚橋訓の両氏、シンポジウム当日及びその準備段階から援助をしてくださった多くの大学の院生の皆様、私の研究室のスタッフと院生の皆様に心より感謝したいと思います。



講演

3 南太平洋のフロンティアライン          印東道子(北海道東海大学)

南太平洋地域はオセアニアと呼ばれ、大小さまざまな島が散在しています。

オセアニア考古学は、

1)これらの島々で暮らしてきた人々のルーツを明らかにし、

2)海によって外海と隔てられた島嶼環境において、住民がどのように生活文化を育んできたか、

という問題を、時間というスペクトルを用いて研究する学問です。考古学研究の中心は発掘調査から得られる情報ですが、考古学以外の研究者との共同調査も、近年活発に行われています。人類学や遺伝学、言語、地理などはいうまでもなく、物理や化学といった分野の分析法を利用して、石器や土器の産地を同定したり、年代測定を行ったりしています。そして、このような多様な角度から得た基礎的な情報を総合的に検討することによって、オセアニアの先史時代に生きた人々の、暮らしや文化が立体的に見えてきます。

ここでは、これまでに蓄積されたオセアニアの先史文化情報のうち、オセアニアへの人々の拡散、つまりフロンティアの移動に焦点をあてて紹介してゆきます。

旧石器集団のフロンティア

人間集団の移動をフロンティアの動きとしてとらえると、2つの異なった集団のフロンティアが別の時期にオセアニア内を西から東へと移動しました。

第一のフロンティアは今から5〜6万年前ごろに動きはじめ、その担い手は旧石器段階の人々でした。このころは最終氷期にあたり、海面が現在よりも80メートル低かったため、東南アジア島嶼部周辺はスンダという大きな陸棚を形成し、オーストラリアとニューギニアも、陸続きになってサフル大陸を形成していました。スンダとサフルは海面が200m下がっても陸続きにはならないので、オセアニアへと足を踏み入れた旧石器集団が、海を渡ってサフルへと拡散したのは明らかです。

現在もっとも古い遺跡は、オーストラリア北岸のアーネムランドで見つかった今から5万2千年前のものです。ニューギニアでは北東のフオン半島で4万5千年前の洞窟遺跡が見つかっています。発掘調査が進むにつれ、フロンティアはさらに海を渡って、ビスマーク諸島からソロモン諸島に到達していたことがわかってきました。今から2万年から3万年前の洞窟遺跡が多く見つかっています。これらの遺跡を残した旧石器集団は人種的にはオーストラロイドと呼ばれ、オーストラリアのアボリジニーの直接の祖先にあたります。

旧石器集団のフロンティアの東限は、ソロモン諸島でした。ここより先は島と島との距離が長く、島影を見て航海できなかいことと関係があるようです。このため、ソロモン諸島までの島々をニアー・オセアニア(Near Oceania)とよび、これよりも南や東の島々をリモート・オセアニア(Remote Oceania)と区別するようになってきました。

旧石器集団は土器を持たず、礫石器や剥片石器を主として使った狩猟採集生活を送っていましたが、ニューギニア中央高地のクック遺跡では灌漑用の溝が発掘され、9000年前にはなんらかの栽培活動を始めていたようです。


オーストロネシア集団のフロンティア

今から約3500-4000年前に、新しいフロンティアが東南アジア島嶼部から東へと移動し始めました。その担い手は新石器集団で、オセアニア全域を横切り、さらに南米大陸まで動いたようです。この新石器集団は、人種的にはモンゴロイドで、言語からはオーストロネシア集団に分類されます(以後オーストロネシア集団と呼ぶ)。

この集団がオーストラロイド集団と大きく異なった点は、土器を作り、タロイモやヤムイモなどの根菜類中心の農耕文化を携え、優れた航海術を持っていたことです。そして、オーストラリアやニューギニアを避けるかのように、主として沖合いの島々に居住地を定め、島から島へと早いスピードで南東へと移動しました。本シンポジウムの3つの講演は、この集団についての話が中心となります。

オーストロネシア集団のフロンティアの東進には2段階ありました。まず、今から約3500年前に、ビスマーク諸島にその足跡を残したあと(本誌Kirchを参照)、ソロモンやヴァヌアツを経て、3000年前にはフィジーやトンガ、サモアにまで到達しました。約4000kmを600年という速い速度での移動です。このフロンティアの移動はトンガ・サモアで約1000年間中断しました。この間に土器作りは放棄され、そのかわりに熱した石を利用して調理する地炉が発達し、石斧の形式が変わり、貝製装身具が姿を消すなどの変化がおこりました。いわゆるポリネシア文化の熟成がここでおこったのです。

次いで今から約2000年前に、再びフロンティアは東進を始めました。まずソサエティやマルケサスへ直進し、そこから放射状に北のハワイ、南東のイースター島へと分裂し、そして最後のフロンティアとなった南西のニュージーランドへ行き着いたのが、今から1000年ぐらい前でした(本誌Davidsonを参照)。ポリネシア内のフロンティアの移動は、タロイモなどの栽培植物をはじめとする多くの文化要素を伴って行われたので、これほど広大な地域に拡散したにもかかわらず、均質性の高い文化がその基底に見出されます。



4 太平洋の植民化過程をいかに理解すべきか
                ピ−タ−・ベルウッド(オ−ストラリア国立大学)

今回の発表で私は以下の事柄の幾つかについて簡単に述べてみよう。

  1. 初めて人類がインドネシア東部の海を渡り、オ−ストラリアとニュ−ギニアに入植したのは何時頃であろうか? また彼らはどのようにして海を渡って行ったのであろうか?
  2. この地域の人々が農耕を開始したのは何時頃であろうか?農耕による生産性の向上が人口規模に与えた影響はどのようなものであったろうか?
  3. この地域内の言語系統史、とくにきわめて広範に分布するオ−ストロネシア語の歴史とはどのようなものか? 何故オ−ストロネシア語は、地球を半周するほどの広がりを持つに至ったのであろうか? またどのような方法(人間の移住、言語の転化)によってそれらは拡大したのであろうか?オ−ストロネシア語の故郷はどこであろうか? そしてオ−ストロネシア語はその起源地からマダガスカルやニュ−ジ−ランドなどの辺境に、どのくらいの時間をかけて拡散していったのであろうか?
  4. リモ−ト・オセアニア(ソロモンの東地域)における初期居住に関する考古学は、今日の東南アジア島嶼部および西メラネシアにおける考古学とどのように関連しているのであろうか?
  5. 東南アジア島嶼部は何時頃、またどのようにしてヒンドゥ教−仏教、およびイスラム教の影響下に組み込まれたのであろうか?
  6. 農耕民が支配的な地域である東南アジア島嶼部一帯に、多数の採集−狩猟民のグル−プが「莢に包まれたような形」で残存しているが、どのような歴史的状況が彼らの存続を可能にしたのであろうか?
  7. アグタ・ネグリト、ニュ−ギニア高地人、東ポリネシア人のように多様な身体形質を示す人々に関して、この地域の遺伝学的沿革をどのように解釈すればよいのであろうか?

短時間の発表では上記の問題について、論理的に明確な筋道立てた解答を出すことは言うまでもなく不可能である。それにまた大部分は完璧な答えが出せるというものでもないであろう。しかしだからといって、これらの問題が探求に値しないとことを意味しているわけではない。またこれらの問題が曖昧で、時間や空間の脈絡に位置付けられた検証可能な事実とはかけ離れていると言っているのでもない。我々の学問を活気づけてくれる見解の相違のほとんどは、こうした問題に解答を与えようとする研究者の「解釈の立場」と関わっているのである。

人類の過去の全体像を復元する力量は、さまざまな再構成の戦略によって左右される。たとえば太平洋地域の大問題を論じようとする考古学者は、これまで二つの相対立する戦略を取ってきたように思われる。つまりある研究者は大規模な類型から開始し、外側から内側に作業を進めていく。たとえば言語や新石器文化についてのこれまでに知られている全体的類型を意識・考慮していることが、太平洋先史学の全体を理解するために必要であるとする。私自身もこの戦略に傾いている。これと対極に位置する研究者たちは彼らの研究する特定の領域、どこかのある一つの小島の考古学的層位といったようなものから開始して、内側から外側に進んでいく。この戦略の問題点は、彼らがその手元にあるサンプルが全体とどのような関係にあるのかということに、まったく気付いていないように私には見えることである。これはとくにラピタ土器もオ−ストロネシア語も散発的に、あるいはまったく存在しないニュ−ギニアおよびその近辺のわずかな調査地域から、西太平洋ないしはラピタ考古学を説明しようとする最近の多くの試みにとりわけ当てはまる。

先史学者達をいくつかの陣営に分断しているもう一つの深い溝は、人類の文化、言語、生物型が時間の流れの中でどのように発展してきたかという問題についてである。文化はどのように形成されたのか?人類科学の中でエスノジェネシス(民族生成論)の概念は有効であろうか?ある研究者たちは過去を系統発生学的に捉える。つまり母から娘へ伝わる一種の出自のように、時間の推移にしたがって言語や文化も次々と分化していくと考えるのである。また他の人々は過去は果てしなく回転する万華鏡、つまり相互作用と通婚の網目状の組織と見做している。双方の視点とも明らかに正しく、それぞれの一連の歴史的状況の中でどちらもきわめて有力に作用しているというのが私の見解である。系統発生は本質的に人口や言語の大規模な拡散で、一つの共通の起源から分化した各々がさらに二次的分化の基盤となるような場合にあてはまる。網目状の文化型は住民の相対的安定性と相互作用(もちろん相互作用は必ずしも平和的なものとは限らないことに注意)にあてはまる。人類先史の大部分は網目状の過程による民族生成であったというのが、もっとも妥当なところであろう。しかし私を含めて、研究の興味と刺激をかきたてるのは、短命だが世界を変革する拡散の物語であるとする研究者も少なくない。

拡散の物語はまたかなり深い次元での見解の相違に火を付けている。オ−ストロネシア人、すなわちこの語族に属する言語の話者であるほぼ三億人もの人口の歴史を説明することは激烈な論争に火種を与えることとなる。

マレ−シア半島部、ボルネオ、スラウェシ、そしてモルッカ諸島の考古学的記録について詳しく触れてみよう。この地域には広範な考古学的遺跡があり、とくに長期にわたって居住し使用されていた洞窟などがある。ウォ−レス線の東に位置するモルッカ諸島には、少なくとも35、000年は遡ると思われる、最初の人類の存在を示す疑う余地のない考古学的な証拠があり、小スンダ列島ではおそらくこれよりさらに遡るであろう。モルッカ諸島でのこれに続く記録からは、さらに幾つもの注目すべき活動が明らかになった。一つは動物の移動で、北モルッカ諸島ではBC約6000年には一つの島から他の島に動物が移されていた。他は世界最古の一つと考えられる貝斧製作の伝統で、BC11000年迄には開始されていたと見られる(現在年代照合を行っている)。最終的にはBC2000/1500年以降、東インドネシア地域はオ−ストロネシア語を話す人々の大規模な流入によって、大きな変革に見舞われた。この流入こそが西太平洋のラピタ文化の母体となり、さらに最終的にはポリネシアおよび大部分のミクロネシアへの植民をもたらしたものであると私は考えている。

オ−ストロネシア語の拡散について強調すべき重要な点、―それはこの地域全体の先史学を理解しようとするすべての試みに確実に影響を与えるに違いないものであるが―は、その大部分がオ−ストロネシア語の話者自身の移動によって生じたということである。さらに先史学的、言語学的双方の記録によると、この拡散はかなりの速度で行なわれた。わずかに西メラネシアにおいて、非オ−ストロネシア諸語からオ−ストロネシア系諸語への転化があったことがはっきりしているものの、オ−ストロネシア語族全体の歴史の中ではクレオ−ル化の明確な痕跡は全く認められない。フィリピンからニュ−ジ−ランドまでおそらく3000年以上にもわたる移住であったとしても、人間の移動そのものが言語状況を説明する唯一の方法である。このような移住に焦点を合わせた解釈からすると、オ−ストロネシア人の世界、とくにメラネシア、に見られる多様性の大部分は、さまざまな民族言語的起源を持つ集団間において、拡散後に生じた相互作用の産物であるということになる。

メラネシアに言及することで最後の論点が浮かび上がってくる。人類の過去において作り上げられた型は、起源地においてもまた辺境においても、決して静止しているわけではない。私の同僚であるス−ザン・サ−ジャンソンはかつてポリネシア人の起源の探求に関連して、次のような点を指摘した。「全員がmtDNA欠損検査に陽性反応を示し、B型血液には陰性であるような、これまでに知られていない住民が東南アジアのどこかに見つかるはずなどないだろう。」 同様な条件は、オ−ストロネシア語やオ−ストロネシア人の遺伝的起源をより一般的な水準で、中国南部に同定しようとする試みにも当てはまると私には思われる。中国南部は過去6000年の間に、少なくとも言語と遺伝型において著しい変化を経験している。福建省や台湾のどこかの荒野に、BC4000年以降に絶滅し、完全に化石化した先オ−ストロネシア人の集団など発見できるはずもないであろう。しかし我々には考古学的記録がある。これは少なくともある程度までは、消滅し化石化したものである。考古学は、台湾のさまざまな新石器文化から、フィリピンやインドネシアの赤色土器、西太平洋の精巧な装飾ラピタ土器を経て、民族誌的現在の東南アジア島嶼部やオセアニアの諸文化にまで至る、オ−ストロネシアの先史文化について多くのことを語ってくれる。ただ一つの問題、すなわち学際的な見解の不一致を引き起こす主要な原因は、壷は口を開かないし、遺伝子も伝えないことである。おそらく新しい時代には、とりわけ遺伝学者の技術および解釈モデルの進歩によって何らかの解答が与えられるかも知れない。



5 ラピタ文化:オセアニア人の拡がり    パトリック・カーチ(カリフォルニア大学)

今からおよそ4万年前に、新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)はアジア大陸棚(スンダランド)と「大オーストラリア」大陸のサフルとをへだてる海峡を渡った。彼らは熱帯圏の北部ニューギニアから温帯のタスマニアまで、そしてビスマーク諸島やソロモン諸島へと、またたくまにサフル全体に拡散した。我々が現在呼ぶところの「ニアー・オセアニア」への人類の進出は、太平洋に居住した人類にとっての偉大な第一期に相当する。

ニアー・オセアニアへ植民したあと、これらの第一期移住者たちは、ソロモン諸島のはずれでその拡散を停止した。というのは、彼らは狩猟採集民であったので、ごく単純な航海技術しか持っていなかったからである。しかし、彼らの子孫たちは、後期更新世から完新世初期にかけていくつかの重要な文化的革新を行った。たとえば、熱帯の根茎や塊茎、樹木類の栽培化を行ったことである。これらサフルの最初の植民者の子孫は、現代のパプア系すなわち非オーストロネシア系言語をしゃべる人々であると考えられている。

オセアニアへの主要な植民の第二期は、今から約6〜5000年前に、オーストロネシア語を話す集団が、台湾(そしておそらく南中国)から東南アジア島嶼部、そしてニアー・オセアニアへと広がったことによって始まった。このオーストロネシア集団の拡散を示す考古学的な足跡は、「ラピタ」と呼ばれる非常に特徴的な土器文化複合によって特徴づけられている。

ラピタ文化複合は地理的にはビスマーク諸島からソロモン諸島、ヴァヌアツへと広がり、南はロイヤルティ諸島とニューカレドニア、東はフィジー、トンガ、サモアまで広がった。つまり、ラピタ文化は中央太平洋地域へ最初に人類(新人)が出現したことを示しているのである。ラピタ文化複合の年代は、大量の放射性炭素年代測定値に基づき、今から3500年前から3000年前の間に比定されている。

ラピタ文化複合を最初に認めたのは、1950年代初期にニューカレドニアのラピタの典型遺跡を発掘した、カリフォルニア大学のE.W.ギフォード教授であった。1968年には、ジャック・ゴルソンがラピタ土器様式を定義し、1970年代には、ロジャー・グリーンがその文化複合が特徴的な居住様式や遺物、生業システムなどを持つことを確認した。

ラピタ文化複合に関する知識は、1985年以降、ラピタ・ホームランド・プロジェクト(ラピタ故郷探査計画)や、それに続く調査によって大いに拡大した。特に、パプアニューギニアのムサウ諸島のタレパケマライ他の遺跡の発掘(1985年から88年にかけて筆者が発掘を行った)は、非常に多くのラピタ文化に関する知識を提供した。

今や我々は、ラピタ文化複合が大変発達した樹木(果樹)栽培、そして洗練された海洋資源の調達などによる生業システムにその基礎をおいていたことを知っている。土器類には、精巧に装飾され、交換財として用いられたものが含まれていた。交換の存在を示す他の証拠には、長距離を運ばれた黒曜石や他の遺物類などがある。初期の居住様式には、ラグーンや礁原上に構築された杭上家屋群からなる大きな集落も含まれていた。

ラピタの人々は、それまで無人であった太平洋の島々へ進出する中で、もっとも遠隔の太平洋の島々への次の植民の準備をしたのであった。南西メラネシア、中核ミクロネシア、そしてポリネシアの人々は、彼らの直接の子孫なのである。ラピタの拡散は、まさに世界の先史時代における最も偉大な出来事の一つに位置づけられる。



6 最後のフロンテイア:ニュージーランドへの移住
     ジャネット・デビッドソン(ニュージーランド博物館)

ニュージーランドは世界中でもっとも遠隔地に位置する陸地の1つである。太平洋に乗り出したヨーロッパ人探検家より数世紀も前に、ポリネシア人がこの地を発見し、移住に成功したことは壮大な物語の最終章に相当する。ニュージーランドはポリネシア人移住者がそれまでに住んでいた故郷の島々と余りに異なっていたので、彼等に新たな挑戦の場と同時に新たな成功への機会の場を提供することとなった。

ラピタ人とその子孫が太平洋を東進した際、彼等は次第次第に、資源の点で地質的にも生態的にも限定された、より小さなまたより辺鄙な島々に移住して行った。私たちはまだどの島、あるいはどの島々がニュージーランド・マオリの故郷であるのかということについて、確信をもって述べることはできない。しかしあらゆる証拠は、クック諸島やソサエテイ諸島といった中部東ポリネシアの島々から彼等がやって来たことを示している。ニュージーランドは穏やかな気候の比較的大きな島である。日本と同じように長くまた細く、北から南までかなりの気候の変差が見られる。

最初の移住者にとって最大の困難は、土地の大きさそのものと冷涼な気候であった。海に珊瑚礁はなく、ほとんどの魚は故郷では目にしたこともないものであった。植生も異なっていた。繊維としてまた屋根葺きの材料として、また食物や飲物としてこの上なく有用なココヤシの木はなかった。またマットやバスケット、さらに衣服を作るのに必要なパンダナス(タコノキ)もなかった。材木用の樹木もすべて目新らしいものであった。航海者が携えてきた多くの作物は生育しなかった。彼等が苦心しながらも耕作できた作物はサツマイモ、つまりクマラと、その他わずか2ー3の有用な植物だけであった。クマラはもっとも大切な食用作物となった。さらにこれらの作物が生育したのは北部の温暖な地方だけであったので,南部に住み着いた人々は狩猟と採集に全面的に依存しなければならなかった。

最初数年間の彼等の生活がどのようなものであったか想像することは難しい。カヌーを補修しようとしても,必要なロープの材料となるココヤシの繊維はない。今まで経験したこともない冬の寒さの中で,身を包む衣服を作るのに必要な植物もなじみのないものばかりであった。石斧やその他の道具を制作する為に使用できる岩石を探して歩くには土地はあまりに広大であった。見慣れぬ果実は有毒で、毒抜きをする手続きが分かるまで食べられなかった。

しかし新しい発見もあった。飛べない巨大な鳥モアも含めて鳥は豊富であった。そしてこれらの鳥は彼らを襲う哺乳動物が全くいない土地で進化してきたために、おそらく容易に捕獲することができたと思われる。海岸にはオットセイの繁殖地があり、それらもまた捕獲は容易であった。この地で見い出した新しい植物や樹木からは、素晴しい繊維や材木が手に入った。有能な石工が道具を作るのに適したさまざまな石材を見い出すのに時間はかからなかった。またニュージーランド・ヒスイは装飾品にも用いられた。

ニュージーランドに最初のポリネシア人が何時頃到着したかという点については、今日でもなお意見の一致を見ていない。ある研究者はたかだか750年前と考えているが、900年から1000年ほど前ではないかと主張している研究者もいる。750年ほど前までに人々がこの地の大部分を探索し、有用な石材を発見し、モアやオットセイを捕獲し、北部では農耕を行っていたことを示す十分な考古学的な証拠があることは確かである。この時点では人口はまだわずかであったが、多分南北両島に比較的平均に分布していたであろう。

人々は急速にこの地に強い影響を与え始める。ほぼ500年前までには森林の開拓が進み、ほとんどのあるいはすべてのモア、それに幾種類かの鳥は絶滅してしまった。オットセイももはや北部の海岸を繁殖地とすることはなくなった。こうした変化は各々の地域で異なっている。温暖な北部では、農耕や豊富な海産資源―それはおだやかな東海岸、および数多くの港、入り江のおかげであるが―に支えられて、人口は引き続き増加していった。人々は新たなそしてより条件の悪い環境、たとえば湿地のハウラキ平原やワイカト渓谷、また内陸の湖水地帯の温泉地など、に進出し始めた。しかし南部では人口は静止状態か、あるいは減少していたのではないだろうか。それは人々が魚や小鳥の蛋白質と、十分な野性植物、あるいは動物性油脂との均衡を保つことが難しいと感じるようになったためである。クック海峡を挟む中央地域では農耕は常に困難であった。北島の南端のパリサー湾では森林開発がもたらした土壌浸食と気候のわずかな悪化が重なったことによって、住民がその土地を放棄せざるを得なくなる事態が生じた。

この頃までに集団間の緊張は高まり、ついに人々は居住地を土塁や矢来によって防御するまでに至った。ニュージーランドのもっとも特徴的な考古学遺跡であるマオリ・パが出現したのである。ニュージーランド全体で6000以上のパが存在するが、その大多数は、人口が次第に凋密化してきた北島の北半分に存在している。パは要塞であると同時に、コミュニテイの勢力と威信の象徴と見なされており、人々はその建造や改築に膨大な精力をそそぎこんだ。他の多くのポリネシア人とは異なって、マオリは精巧な宗教的建造物、巨大な家屋、陵墓などを作らなかった。要塞はマオリの威信を誇示するもので、風景の中で一際目をそばだたせるものとして、その多くは今日まで残存している。

熱帯の東ポリネシアからの新来者が、時折その静寂を破ることはあったかもしれないが、―通常の双方向の接触はなかった―、数世紀間は比較的孤立したニュージーランドの土地で、マオリは独特の形式の芸術や工芸品のスタイルを発達させていった。そしてやがてそれらは最初の移住者によってもたらされた東ポリネシアのそれとは著しく異なるものとなったのである。トタラなどの木材は家屋やカヌーの彫刻には最適であった。またハラケケ(ニュージーランド亜麻)を使用して模様を編み込んだ編物も発達した。またニュージーランド・ヒスイからは斧やノミの刃ばかりでなく、新しい形式のペンダントが作られるようになった。これらすべての品々は個人やコミュニテイの威信や地位を反映するものであった。

ポリネシアにおいて、あるいは世界的に見ても、ニュージーランド先史学のもっとも興味ある側面の1つは、ヨーロッパ人の到来以前のマオリが、それぞれの地域において生存条件や生活様式が著しく異なっているにもかかわらず、ニュージーランド全土を通じて社会組織、宗教文化、物質文化などについて共通した考えを持っていたことである。比較的定住的な農耕民、様々な型の採集狩猟民、またその中間に位置する人々が、類似な考え方を共有し、多種類の物資(もちろん考え方も)がやり取りされる複雑な網の目によって連結されていたのである。考古学的な証拠は、有用な石材が遠距離を移動していたことを示している。例えば黒曜石は北島北部から、またニュージーランド・ヒスイは南島のはるか南部および西部からもたらされており、さらに石斧に使用する様々な種類の石材も広く運搬されている。また遺物として残らない物、たとえば保存食物、羽根、外套、さらにカヌーまでもが交換されていたことが、民族学的証拠によって示されている。戦争は日常茶飯事であったが、特定集団の間では戦争の合間に時折の平和の期間が存在した。贈り物の交換は和平交渉に欠くことのできないものであった。

歴史時代の初期には、ニュージーランド全体を通じてハプ(しばしば亜部族と訳されている)が社会組織のなかで最大の実効集団であった。しかしハプの大きさや、1つのハプの成員が住んでいる範囲、およびハプの成員が多様な資源に接近する方法は、生存条件基盤の状況に依って多様であったように見える。これまでは1つのハプの成員は1つの村落に居住していると考えられてきたが、これは近年の歴史研究によって見直されている。ポリネシア的社会組織にあり方は、ニュージーランドにおいては気候や資源の著しい地域的多様性にうまく適合していった。

ポリネシア的適応の特別な事例は、クライストチャーチの海岸から東へ900キロに位置し、面積約10万ヘクタールのチャタム諸島に見ることができる。チャタム諸島にはニュージーランド本島からポリネシア人の少数集団が移住したと想定されるが、それ以後は、200年ほど前にヨーロッパ人が到来するまで、この島は完全に孤立していた。チャタム諸島は面積の点では熱帯の東ポリネシアの島々に似ているが、気候や環境の点では完全に異なっている。この地の住人として知られるモリオリは、この孤立した島で独特の適応を行った。彼等の道具、釣針、装飾品は初期ニュージーランド物質文化のごく一部であった。カヌーを作る木材が手に入らないので、彼等は葦のボートを発明したが、これはチャタムのごつごつした岩がちの海岸にはよく適合していた。数多くの木彫りの中には、独自の形式を持つ芸術が表現されていた。モリオリは農耕作物を持っていなかったので、魚やアザラシなどの海産資源に大幅に依存し、野性植物や鳥類でそれを補っていた。彼等の食生活は高脂肪、高蛋白、それに比較的少量の炭水化物という独特のものであったが、それはおそらく南島南部で採集狩猟を行っていた初期マオリのそれとよく似たものであったろう。ヨーロッパ人の来訪当時、人口約2000人のモリオリは戦争をすることなく、この厳しい環境にうまく適応していた。チャタム諸島こそ太平洋の最後のフロンテイアであったのである。



7 質疑応答

4氏の講演終了後、会場からの質問を受けた。当日の質問解答の順序ではなく、解答者、解答内容別に整理して記載しておく。なお記載の便宜上、質問者のお名前を割愛したことをご了承いただきたい。

ベルウッド氏に対して

Q オ−ストロネシア語集団がアジア南部を離れて太平洋に進出した理由は何か? またそれはいつ頃で、その出発点となった地域はどこであったか?

 彼らが移動を開始したのはおよそ6000年前で、600年前まで移動を続けていた。したがって拡散は非常に長期にわたっている。彼らが移住をした理由はいろいろあるであろうが主要なものとして4つあげられよう。第1は彼らはカヌ−を持っており、航海知識にすぐれていたこと、第2は栽培植物および家畜動物を有していたので小さな島にも定住することができたということ、第3に人口の急激な増大があり これが島の動植物に急激に大きな影響力を与え、これが彼らをさらにその先への移住に駆り立てたこと、第4は彼らの生得的地位に基づく社会構造の点から説明できる。つまり最初の移住者は大きな富を得て自己の階位をあげることができる。これは北アメリカやオ−ストラリアその他の地域でヨ−ロッパ人が入植した時もおそらく同様であった。入植は地位や生活のスタイルを向上させるのに役立つ。オ−ストロネシア人もこのようなことを知っており、チャンスがあればそれを生かそうとしたということは考えられないだろうか。


Q 彼らはなぜオ−ストラリアには行かなかったのか?

 オ−ストラリアのアボリジナルスはディンゴという犬を持っているが、これは多分3500年くらい前にオ−ストロネシアから伝えられた犬であろう。しかしオ−ストロネシア人はオ−ストラリアに定住したことはないようである。ヨ−ロッパ人がオ−ストラリアに入植する以前に、インドネシアの漁民がオ−ストラリア北岸に来て海産物などを採取していた。彼らの一部はアボリジナル女性と結婚し、故郷に連れ帰っている。インドネシア語のかなりの単語が北部オ−ストラリアの一部に導入されているが、これはインドネシアとお−ストラリアとの間に接触があったという証拠となるであろう。しかし彼らが定住しようとしなかった理由として、1つはインドネシア人は農耕民で、とくに中央インドネシアでは稲作農耕を行なっていたが、オ−ストラリア北部は乾燥地帯で稲作に適していなかったこと、1つは南ニュ−ギニアなどではマラリアも多くオ−ストロネシア人の人口が急激に増加するというようなことがなかったので、拡散が起きなかったのではないかとも考えられる。本当の理由はよくわからないが、たしかに若干のオ−ストロネシア人はオ−ストラリアに移動しているが、そこに居着くことはなかったのである。


Q オ−ストロネシア人の移動において、スラウェシ島の文化はどのような意味を持つのであろうか?

 スラウェシはオ−ストロネシア文化の島であり、オ−ストロネシア諸語やオ−ストロネシア的考古学遺物があり、オ−ストロネシア文化の拡散に大きな役割を果たしている。もちろんスラウェシはオ−ストロネシア人が到着するはるかに以前から居住されており、旧石器時代の洞窟もある。これはウォ−レス線の東にあるので、直立原人がスラウェシに居たかどうかはわからない。しかしこれはインドネシア中央部にあり、オ−ストロネシア文化に重要な位置を占めていることは確かである。


Q フロ−レス島で80万年前に石器が出土したと報道されているがこれは本当であろうか? 出土した遺物はどのようなもので、年代は確かであろうか?

 オランダ、インドネシアによってかなり以前から、そしてまた最近はオ−ストラリアの考古学者によって発掘が行なわれている。これは私も見たことがあるが明らかに石器であり、また絶滅した象ステゴドンの骨と共に出土している。この石器が発見された地層から出てきたジルコン粒子について、最近のフィッション・トラック法による研究では80万年前という年代測定がなされている。昨年の初めイギリスの雑誌『ネイチュア』にこれが報告され、現在でもまだ研究が続けられている。問題はジルコン粒子を生み出した火山灰であるが、この火山灰が80万年前にこの地に降下して以後、そのまま動かずにこの位置に止まっていたかどうかは確実ではない。換言すれば、地質学的にはジルコン粒子、石器、そしてステゴドンの骨が異なる時期に堆積して、そのまま混合してしまったという可能性もないわけではない。しかしこの発見が正しいという可能性もある。しかし100%の可能 性を以てこれを証明することは至難の業である。直立原人が小スンダ列島、またチモ−ルまで移動した可能性もなくはない。私たちの知っているかぎりオ−ストラリアまで直立原人は到達はしなかった。


Q 海面上昇と民族移動は関係があるか?

 私のレジメの中に『東のエデン』という書物があげてある。この本は非常に複雑な内容なので、本日の講演のなかでは触れなかった。この著者はスティ−ブン・オッペンハイマ−であるが、彼はオ−ストロネシア人の祖先を私が考えているよりさらにずっと古いものと考えている。彼はオ−ストネシア人の祖先は今からおよそ一万年前に今は東シナ海の海底になっている土地に居住しており、彼らは最後の氷河期終了にともなう海面上昇のために移動しなければならなかったとしている。私は彼の説には同意していないが、このように海面上昇と移動を結びつけて考えている学者は彼以外にもいるようである。たとえば地中海の水が黒海に流れこんだために、農耕民がエジプト、ヨ−ロッパに移住したのだという主張をする学者もあるが、私自身はこれにも賛意を表してはいない。太平洋で海面上昇が生じたことは確かであるが、これが人間生活にもたらしたインパクトはそれほど大きいものではないのではないかと私は考えている。


カ−チ氏に対して

Q ラピタ土器の文化複合は非常に広い地域にわたって同じような印象を受けた。しかしそうした均質的な文化の中における考古学的多様性はあるか?

 ラピタ土器に関してももちろん多様性は存在する。本日の限られた時間の講演のなかではそれに触れることはできなかったが、1997年に出版した本の中に土器に関する章があり、そこで地域的な相違について述べている。少なくとも4種の区分をすることができるであろう。まず地域的な軸で分類し、次に時間的な軸で初期、中期、後期に分類する。たとえばラピタの西部地域では、これはビスマルク諸島の辺りであるが、この地区は時に極西ラピタ地区と呼ばれている。そこの初期、中期、後期について見ると次第次第に変化していることがわかる。西ラピタ地区としては東ソロモン諸島、サンタクル−ズ島、南ラピタ地区はニュ−カレドニア、ロイヤルティ諸島など、また東ラピタ地区はフィジ−、トンガ、サモアなどに地域的に分けられる。複雑ではあるが、地域的にも、経時的にも変化があり、考古学者はこれをセラミック・シリ−ズと呼んでいる。水平的すなわち地理的な変化、および時間的な変化を総合してラピタ・セラミック・シリ−ズと呼んでいるのである。ラピタは複雑な1つの文化複合の集合体であってそれが何千年にもわたり、また何千キロにもわたって展開されたものである。したがってたしかに多様性はあるのではあるが、しかし明らかなことはこれらはすべて時間的にも空間的にも関連しており、ビスマルク諸島を共通の起源地として広く展開したということである。


Q ソロモン諸島ではあまりラピタ土器が出ていないといわれているが、最近何か新しい発見があったか?

 たしかにソロモン諸島に関しては最近までラピタの知識に関して大きな欠落があった。しかし最近オ−クランド大学のピ−タ−・シェファ−ドによって西ソロモンのニュ−・ジョ−ジア・グル−プで発掘作業を行ない、ラピタの遺跡をとくに珊瑚礁のリ−フ・フラットで発見している。これはリーフの中の開けた場所でおそらくここには高床式住宅があり、家の中から捨てられた土器がこの珊瑚礁上に取り残されていたのではないかと思われる。したがって西ソロモンにはラピタが存在したことは確かである。しかし中央ソロモンの大部分ではまだ考古学的調査が行なわれていない。とくにガダルカナル、マライタ、サンタクリストバル島などにおける調査が必要であろう。それらの地区でリ−フや、海岸段丘において発掘が進められるならば、発見されるのではないかと考えている。


Q ポリネシアに広く分布していたラピタ土器が、ある時機に突然消えてしまったことについて文化の熟成(cultural maturation) という語を使って説明していたが、文化の熟成とはどういう意味であるか? またなぜ消えてしまったのであろうか?

 これは複雑な問題で短い時間で答えることは難しいが、簡単に言うならば、土器のタイプが時代によって次第にかわってきたことのではないか。つまり土器の実際の使用法ではなく、社会的役割が変化してきたのである。最初の土器には非常に複雑な文様があり、地域社会間で交易のために使われていた。複雑な文様はやがて放棄され、交易に土器が使われることがなくなっていく。こうして土器の社会的価値がなくなっていく。ラピタの子孫であるトンガやサモアのポリネシア人は、一夜にして土器を作らなくなったわけではない。土器が完全に消滅する迄には1000年もかかっている。おそらくその間にマットや樹皮布などが社会的に価値を持つものとなり、それらが土器の代替物になっていったのではないかと考えている。


Q ラピタ人はサモアからマルケサスとソサエティに移動したという説明があったが、どちらへの移住が先に行なわれたか?

 これはラピタ人に関するというよりもラピタの子孫たちに関する質問である。彼らはトンガ・サモアの西ポリネシアからさらに進んで、中央、東ポリネシアに進出している。最近の文献によればこうした東ポリネシアの移動に関して、かなり討議が行なわれている。ある人々はこれをロング・クロノロジイといい、私の友人のアンダ−ソンのように、ショ−ト・クロノロジイという人もいる。マルケサスかソサエティか、オ−ストラル諸島か、あるいはクック諸島かということについては、もっと調査をしないと解答は出せないであろう。私と私のチ−ムが南クックのマンガイアで行なった発掘によれば、植生や花粉などから紀元前500年と推定されるが、しかし私たちは直接的な考古学的証拠は 未だ持っていない。したがってもっと今後発掘作業が必要であり、クック諸島ばかりでなく、オ−ストラル、あるいはソサエティ諸島でも考古学的調査を行なう必要があるであろう。個人的にはジェフ・アレンズの西ポリネシアにおけるプログレッシブ・セトルメントという考え方に賛成である。これは500年から2000年かけて西ポリネシアから漸次移動していったと いう考え方であり、これはよい仮説だと思うが、これも今後立証していく必要があるであろう。


ダヴィッドソン氏に対して

Q ネズミが2000年前にニュ−ジ−ランドに住んでいたというが、それは2000年前にニュ−ジ−ランドに人間が住んでいたことを意味しないか?

 ネズミに関しては最近議論になっている。これはたしかにポリネシアのネズミであっておそらくマオリによってもたらされたものと考えられる。これは放射線炭素によるASM法を使用して、ごく小さな骨から測定されたものである。このネズミの骨は遺跡の中から発掘されたのではなくて、自然の洞窟の堆積物の中から、各種の鳥などの骨に交じって一緒に見つかったものである。フクロウが落としたネズミの骨であったかもしれない。

この年代に関しても賛否両論がある。多くはこれを受け入れているが、受け入れていない人もいる。私は個人的にはこの年代を受け入れているが、この議論に関わっている人の意見では、ネズミを2000年前の人間とに結びつける証拠はないという。次のような示唆ができるかもしれない。つまり男性だけの一隻のカヌ−がネズミとともにマオリの入植するはるか昔にニュ−ジ−ランドにやってきたが、人間は滅び、あるいは去り、ネズミだけが生き延びたということも考えられよう。

ネズミがニュ−ジ−ランドの自然生態に与えた影響はおそらく大きいものであったろうが、しかしその影響は人間やイヌが自然に与えた影響とはおそらく違っていたであろう。いずれにしても人間の到来前にネズミが居たということは非常に興味のあることである。


Q ニュ−ジ−ランドのパにはクマラの貯蔵庫があったと思われる。パにおける人間の居住跡とクマラ貯蔵庫はどのくらいの割合で存在していたのであろうか?

 パの中には居住跡とクマラの貯蔵穴の両方が発見されているし、またパの外側にこの両者が発見されていることもある。小さな居住地であったが2つの貯蔵穴があり1軒の家、それに調理場の跡も残っていた。これはおそらく1つの家族であったろう。しかしこれが平均というわけでもなく、さまざまな種類がある。主として防御的な食料貯蔵庫であって、家の数に比べて貯蔵穴の方がはるかに多いというものもあった。また反対に居住跡だけで貯蔵穴がまったくないというものもあった。この質問に答えることは難しい。


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